存在の耐えられない軽さ

京都は今でこそ観光都市として脚光を浴びていますが

少し前までは(まあ、いまでも)

高度成長や流行の最先端という世界からは遅れています。

いい具合に取り残されたのが

結果として観光資源として活きた、ということなのかなと思います。

同じ文化でも、京都は伝統、東京は先進。

これは今も大きくは変わりません。

京都は中途半端に都会なので、京都人の一部は「東京にも負けない」と思っていますが

京都人が思っている以上に先進という意味においては開きがあります。

ただ・・・

残念なことに日本の先端文化というのは

少なくとも明治維新以降では、常に西洋からの輸入ものでした。

まあ、それ以前から舶来でしたが。

戦後の急激な西洋化を先進文化の発展と捉えるならば

東京は独自のものはほとんど生み出していません。

概ね、他所で創造されたものを消費する街であり続けています。

少なくとも鎖国中の江戸が生んだオリジナリティ溢れる文化は

東京にはありません。

そしてそれがそのまま今の日本の象徴です。

今も西洋の文化文明に精通していることにマスメディアで最大級の評価がされる日本。

その基準で一人勝ちの東京に、地方が羨望する。

そしてマスメディアの関係者は東京羨望の地方出身者が自ずと多い。

この構造に掉さす者は少ないです。

もちろんそれが悪いとまでは思いません。

でも格好いいとは絶対に思いません。

イギリスで英語が喋れると自慢するくらい格好よくないです。

そんな姿の行く末に日本という国の存在意義があるのかどうか。

・・・

自国の存在の耐えられない軽さが

私の源動力なのかもしれません。